バターリャ修道院の解説・紹介
ポルトガル中部レイリア地方のバターリャにあるバターリャ修道院は、ドミニコ修道会の修道院で、ポルトガルにおける後期ゴシック建築&マヌエル様式の傑作です。
バターリャ修道院の正式名称は「勝利の聖母マリア修道院」ポルトガル語:Mosteirode Santa Maria da Vitória)です。
1385年8月14日にバターリャ近郊で、王位継承問題を巡って「アルジュバロータの戦い」(Batalha de Aljubarrota)」を繰り広げ、ジョアン1世率いるポルトガル軍が、数的優位に立つカスティーリャ軍を奇跡的に勝利を収めました。
1383年から続いていたカスティーリャ王国とポルトガルとの戦いにおいて、ポルトガルの勝利を決定付ける戦いとなっています。なお、「バターリャ」とはポルトガル語で「戦闘」の意味です。
国王ジョアン1世は、この勝利を聖母マリアに感謝するためため建築を決意。1388年に始まった建設は、16世紀初頭まで2世紀もの歳月をかけて、膨大な人的、物的資源が投入されて建てられました。
当時、ポルトガルには未知だった建築技術、芸術様式が導入され、独自の発展を遂げ、ポルトガルの独立を象徴する建築物となりました。ポルトガル・ゴシックとマヌエル様式が混在した独特の調和を生み出しています。
「王の回廊」は、初代建築家アフォンソ・ドミンゲスが建設したゴシック様式の回廊に、リスボンのジェロニモス修道院の回廊(1階)を手がけたディオゴ・ボイタックにより、マヌエル様式の装飾が施されています。
その後、バターリャ修道院は1755年のリスボン大地震や、ナポレオン配下の将軍アンドレ・マッセナによって多くの被害を受けました。また、ナポレオン支配に対して起きたスペイン独立戦争がイベリア半島で展開された1810年から1811年にかけても多くの被害を受けました。
1840年にフェルナンド2世がバターリャ修道院の修復を宣言し、20世紀の初めまで修復作業が続きました。1980年には、修道院は博物館となっています。
- 名称 / 英語名
- バターリャ修道院 / Monastery of Batalha
- 種別
- 文化遺産
- 登録基準
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(1) 人類の創造的才能を表現する傑作。
(2) ある期間を通じてまたはある文化圏において建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
登録基準とは - 登録年
- 1983年
- 公式オフィシャル・サイト
- ユネスコ / UNESCO 公式サイト内の Monastery of Batalha ページ

ceiling of one of the unfinished chapels / Dunleavy Family

west door – 4 evangelists / Dunleavy Family

Main Nave of Monastery of Batalha / andré.luís

Joint tomb of king João I and his wife Philippa of Lancaster / Dunleavy Family